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事務長の独り言

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認知症介護の理解

計7日間の認知症介護実践者講習に参加してみっちり勉強しています。本当にたくさんの気づきを得ることができましたので、皆様にも知っていただきたいと思い、復習の意味も込めてここに記します。

今や誰がなってもおかしくない認知症(2025年には日本で700万人に達します)。
ではあなたは認知症の方の何をみて、この人認知症かも?と思われますか?
 
認知症によって現れる症状は大きく2つに分けられます。1つ目は「中核症状」です。これは認知症になると必ず出てくる症状で、以下のようなものがあります。
記憶障害:特に近時記憶がすっぽり抜け落ちる
見当識障害(時間):時間的感覚がなくなる。昼と夜や季節が分からない
見当識障害(場所):道に迷う。トイレや電気のスイッチの場所が分からない
見当識障害(人):知っているはずの人が分からない。家族が分からない
実行機能障害:料理など作業の手順が分からない。物事の段取りがつかない
失行:服が着れない。パズルができない。
失認:人や物、音などを見たり聞いたりしても、それが何なのか認識できない
 
これらは、認知症になると(少しずつにせよ)必ず出てきます。避けることはできません。
 
一方、防ぐことのできる症状もあります。「行動・心理症状」です。これは、環境や周りの人の言動などによって引き起こされる二次的症状で、
妄想、徘徊、攻撃性、介護拒否、不適切な行動、昼夜逆転、焦燥
などがあります。これはみなさんが、認知症の人に対して一般的に持たれるイメージだと思います。
でも改めて言いますが、この「行動・心理症状」は、認知症になると必ず出てくるものではなく、環境や周りの人の言動によって引き起こされるものなのです。
 
どういうことかと言うと、、
認知症になると、今まで当たり前だった事が分からなくなったり、できなくなったりします。記憶障害で言えば、よくある「あれ何だったか思い出せない~」という記憶の一部消失ではなく、ある部分の記憶全体がすっぽり抜け落ちます。結果、記憶の連続性がなくなり、今自分がどういう経緯でこの場所にいるのか、なぜここに座っているのかが理解できなくなります。そこに見当識障害が加わると、自分のいる場所がどこなのか、そばにいる人が誰なのか、そして今は朝なのか夜なのかも分からなくなります。
 
人間の脳は、そういうシビアな状況に陥った場合、僅かな手がかりやヒント、自分のまだ持っている知識などから、最も考えうるストーリーを作り出し、それを事実だと思い込みます。それは健常者から見ると、妄想です
 
また、当たり前のことですが、自分のいる場所が分からなくなれば、それを確かめるために、周囲を歩き回ります。あるいは前述の妄想により、自分がこれからどこかに行かなければならないという結論に至れば、その自分の信じた目的地に向かって歩き出します。それは健常者から見ると、徘徊です
 
また身体介助(例えばおむつ交換や入浴介助)において、誰か分からない人が、分からない事を言いながら、分からない表情で近づいて身体に触れらたり動されたりした時、自分を守るため大声を出して拒絶反応を起こします。それは健常者から見ると、攻撃性であったり介護拒否となります。
 
つまりこれらの、健常者から見れば不適切な行動は、本人にとっては意味のある、目的のある行動なのです。ここに、認知症の理解、そして「行動・心理症状」を起こさせないケアの鍵があります。(「困った人」 → 「困っている人」の認識変更)
 
このユーチューブ映像を御覧ください。
https://youtu.be/7kKAq6lHgeY
 
映画館で(故意に)予定と違う映画が流されました。すると観客はざわつき、お大きな声を出したり、立ち上がったり、放映室に向かって手を振ったりしました。
知らない人が、この場面を見れば、観客の行為は明らかに不適切な行動です。
 
でも観客からすれば、違う映画が流されたという理由があるように、認知症の方の一見不適切に見える行動にも理由が存在します。つまり見たい映画(求めている物)に対して、違う映画(違う物)を見せられているからこそ出てくるのです。
 
認知症のケアにおいて、現れた症状を、その理由を探ることなく、単なる異常な行動とみなせば、無理やり静止したり、おやつを出すことによってごまかそうということになります。でも残念ながらそのようなやり方では収まらないどころか、さらなる焦燥感を生み出します。
出てくる症状の理由を知ることが認知症に対するあるべきアプローチとなるのです。
もちろん、十人十色の性格や歩んでこられた人生に起因する事が多く、いので、それを知るのは容易ではりません。でも、それを探ろうという姿勢こそが、これからの認知症ケアに求められるものなのです。
 
いま、認知症介護における新たな理論「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」の考え方が求められています。
その人を中心に考えるというのは、昔から何度も言われて来たことですし、何も新しくないという気がするかもしれません。
でも、その人中心と言いながら、自分の(健常者の)価値観で、認知症の方の行動を判断し、本人の同意のないまま是正しようとしたり、その人の個性を見ずに「認知症の人」という目で見てたり、或いはしてあげるというケアをしている人はまだまだ多いのです。
 
長谷川式という認知症検査を考え出された長谷川和夫先生の著書から抜粋します。
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(ある物語)
足元のおぼつかない幼い子(1歳半位)が公園を歩いていました。ところが何かのはずみで転んで泣き出しました。するとそこに4歳くらいの女の子が駆け寄ってきました。
助け起こすのかなと思っていたら、女の子は倒れている小さい子の傍らに自分も腹ばいになり、幼い子を見てにっこり笑いかけました。
泣いていた子もつられて泣きやみ、にっこりしました。
女の子が「起きようね」というと、小さな子も「うん」と言って一緒に立ち上がり、手をつないで歩いていきました。
『認知症ケアの心』ぬくもりの絆を創る  長谷川 和夫著
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ケアが必要となった人に駆け寄り、そして上から引き起こすのではなく、まずその人の視点に立って、その人の力を信じて笑顔で声掛け促しをする、まさに「パーソン・センタード・ケア」の原点を示すようなお話です。

認知症の人は、認知機能(を担当する神経細胞)が障害を受け、言葉も失っていくため自分の不安や望みを訴えることはできませんが、感情や意欲は失われず「心」は生きています。言葉に出せない想いを、みつけてあげることのできる。そんな介護者になりたいと思います。

『私たちには言葉よりも、あなたがそばにいてくれること、私たちと思いを分かち合ってくれることが必要だ。私たちの感情と精神は、まだここにいるのだ。あなたが私たちをみつけてさえくれるなら』(「私は私になっていく-痴呆とダンスを」クリスティーン・ブライデン著)

2018-09-30 12:52:38

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BLS講習

日本ACLS協会(https://acls.jp/public/dispatcher.php?c=Top)が主催するBLS(一次救命処置)講習を受けてきました。
平日の講習ということもあってか、広い会場(大阪なんばトレーニングラボ)に、受講生はなんと私一人。。贅沢なマンツーマン授業でした(笑)。
いろんな救命シーンのビデオを見ながら、インストラクターとディスカッションし、人形相手にそれぞれの状況に応じた救命措置動作を繰り返し行い、最後には実技と筆記テストを行い、なんとか合格できて認定書をもらいました。


何らかの理由で、心停止となった人を見かけたとき、ほぼすべての人が119番通報まではしますが、実際に救急車が来るのは、それから9分前後。それまでに救命措置(胸骨圧迫、人工呼吸、AED)を行っていないと、救急車到着時点で救命できる可能性は10%に満たないそうです。なので、救命できるかの決め手は、その時たまたま周りにいた人が、必要な救命処置を取れるかどうかにかかってきます
人生のうち、そういう場面に出くわさない可能性もありますが、一方で救命措置が必要な状況に遭遇したのに、119番通報以外できず、救える命を救えないという事も起こりえます。

この研修を受けると、やらなければならない措置を繰り返し行うため、自信がつきます。
一般の方でも受講可能ですので、ぜひ皆様も受けてください。

2018-06-08 15:44:56

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初めての新郎友人代表スピーチ

昨日、生まれて初めて結婚式で(新郎友人代表)スピーチをしました。
 
新郎とは昨年9月に介護の研修で知り合い、8か月間同じクラスで学んできました。
15も年下ですが、明るく素直で考え方が前向きな男で、仲良くしていました。それでも1年にも満たない付き合いなので、結婚式に誘われただけでも、「えっ、僕が参加していいの?」という感じでした。それがその後、友人代表スピーチまで頼まれた時は仰天しました。
 
彼の友人だけでも20名が参加する中で、私への指名です。しかも私は彼の交友関係を知らない為、結婚式で知っている人がほぼいないという、完全アウェー状態。しかも、私は友人の結婚式というものに参加した経験が過去1回(15年前)しかありません。
 
ものすごく悩みました。彼は私を指名した理由について多くを語らなかったのですが、うれしくもあったので私も何も言わずに引き受けました。それから何度か、仕事と結婚式の準備に忙しい彼を呼び出し、これまでの彼の人生、そして彼女との出会いなどについてヒアリングを行い、そこへ、私が観察してきた彼の魅力をミックスさせて、結婚式会場で私が何を伝えるべきかを考え抜いて5分間のスピーチを作り上げました。
 
さていよいよ当日です。披露宴会場は横長の非常にコンパクトなレストラン、広くはないスペースにほぼ知らない人ばかり総勢70名がすぐ近く(一番近い人で1mくらいの距離)で聴くという一番緊張する会場パターンの中で、壇上に上がりました。
 
上がった瞬間、聴衆を見ながらこう感じました。(あっ、この人達、本当に温かい!これは形だけでなく心から本気で新郎新婦を祝福しているぞ!)
説明しにくいのですが、そう感じた瞬間に、完全アウェーの会場が、味方だけに囲まれたホームグラウンドに代わりました。
 
自分の言葉一つ一つに聴き手が反応してくださり、時には反応が大きすぎて、おさまるのを待たなければいけない瞬間もありました笑。
スピーチを作るにあたり一番頭を悩ませたのは、それまでなんとなく感じていた彼の魅力をいかに言葉にするかです。掘り下げて考え抜き導き出した彼の一番の魅力は、「人の話を聞く力」でした。
それを冒頭で紹介した時、会場の中で、彼と私よりも古くから付き合いのある男性7人組のテーブルを中心に声が上がりました。
「それ、それ、それやねん!!」
私が彼の魅力を伝え、そして彼の友人たちが賛同の声を上げる、それを聞いた新婦の友人、そして何より新婦のご両親の感慨深げな表情を見たとき、自分の役目は果たせたかなとスピーチしながらホットしました。
 
でも思ったんです。スピーチってかっこよく流暢に話せればよいのではなく、人に共感してもらってなんぼのものだって。
私の後に新婦さんの学生時代同級生のスピーチがありましたが、壇上に登るなり、新婦への気持ちがこみ上げて広げた紙を震わせながら、とつとつと語りだします。形だけを見れば、紙も見ず、(幸運にも)噛まずに話せた私の方が上なのかもしれませんが、彼女の思いのこもった言葉は、私なんかよりはるかに聴き手の心を揺さぶる最高のスピーチでした(私ももらい泣きしてしまいました)。
 
帰り際、乾杯前の最初のスピーチをされた、新婦の看護大学時代の先生が寄って来て声をかけて下さり、「あのスピーチは僕が今まで聞いたことのある中でピカイチだったよ。起承転結、新郎の人となり、新郎の苦労、スピーチの中に凝縮されていて、最後の言葉も素晴らしかった。本当によかった。」と言って下さりました。知らない人ばかりの中で、聴き手が少しでも共感を得てくだされるようなスピーチができたことは、ものすごい自信になりました。も~一夜明けた今でも興奮がおさまりません笑。
 
この勢いで、落語も頑張ります笑笑。

2017-07-09 13:02:20

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介護の本質

今日は介護の勉強を通じて、コミュニケーションの本質を学んだというお話をします。

私は今年から介護の仕事にも携わるようになり、とりえずヘルパーの資格を取ろうということになりました。

皆さん、いわゆるヘルパーさんの仕事ってどんな事が頭に浮かびますか?おそらく多くの方が、排泄・お風呂・食事、の世話をする人というイメージだと思います。実際私もそう考えてましたし、ヘルパーの資格なんて実技指導を受ければすぐに取れる形だけのもので、あとは現場で実践あるのみと思ってました。しかし実際には、130時間(1日7時間として19日間)ものカリキュラムがあり、しかもその半分以上が座学で、その座学のメインがなんと、いかに相手の事を理解し、そしてどうやって自分を受け入れてもらえるようにするかという、介護技術というよりむしろ話し方教室で教わるような内容だったので、非常に驚きました。

講習のボリュームが増え、中身も実技中心から座学が増えたのには理由があります。考えてみて下さい、排泄・入浴・食事の介助と簡単にいいますが、みなさんは他人の前で裸を見られたり、良く知らない人に自分の部屋に入るなりオムツ(下着)の中を確認されたり、正面から足を開いて陰部洗浄されたとしたら、どんな感情が起こりますか?年齢とともに嚥下機能が低下して、食事を飲込むのに時間がかかる人がいます。油断すると食べ物が気管に入りそうになります。皆さんがそのような状態の時、信用していない人があなたの食事介助について、食事を口の中に運び入れたら、落ち着いて食事を楽しめますか?皆さんであればその様な介護は全て拒絶すると思います。しかし、残念ながら実際に介護を必要とする立場になれば、他人の手に身をゆだねるしかなくなります。自分の気持ちをわかってもらえない、恥ずかしくて情けない介護です。

では一方で、介護する側はどうでしょう?たくさんの高齢者の相手をしながら、短時間に事故なく作業を終わらせることでいっぱいいっぱいで、相手の気持ちまで考える余裕はとてもありません。いそがしくてきつくて、しかも相手から感謝というエネルギーを受け取る事のない全くやりがいの生まれない介護の仕事。自然と介護というものが、お互い心の通い合う事のない殺伐としたものとなります。それがこれまで多くの施設で行われてきた介護です。介護する側もされる側も疲れ切っています。

あと10年もすれば団塊の世代が80代に突入し、すごい勢いで高齢者が増えている今、このような介護の現状を変えることは待ったなしの課題であり、だからこそヘルパー講習のあり方が変わったのです。

では、いったいどのようにすれば、介護される側に自然と感謝の気持ちが生まれるような介護が出来るのでしょうか?今のヘルパー講習では、高齢者の気持ちを理解し、本人に生きる意欲を持ってもらうようにすることが大切であると教えています。なぜなら、高齢者、特に介護が必要な高齢者になると、自分たちは周りに迷惑を掛ける存在で、社会から必要とされていない、そういう疎外感からふさぎ込みがちになるからです。

しかし、最近になってわかってきたのは、介護を必要とする高齢者が意欲を失えば、自ら積極的に動こうとしなくなり、結果としてADL(日常生活を行う上で最低限必要な動作能力)も悪化する。そしてそれが結局、介護する側にとってさらなる負担になるという悪循環に陥ってしまうという事です。

これからの介護士は、相手の事を、介護の必要なおじいちゃん、認知症のおばあちゃん、というように、病気や身体の状態だけに注目するのではなく、これまで長い人生を歩んできた、一人の人間として相手のことを尊重し、そして生きる意欲をもってもらう事が大切です。そうすれば、介護する側される側両者に絆が生まれると同時にADLの改善も期待できます。

最後に、イギリスの高齢者施設で亡くなられたある老婦人が残した日記を皆さんにご紹介したいと思います。これは亡くなられた後に手荷物の中から見つかったもので、それを見た施設長が施設スタッフ全員への貴重な教育教材として利用したものです。

------------------------
何が見えるの、看護婦さん、あなたには何が見えるの
あなたが私を見る時、こう思っているのでしょう
気むずかしいおばあさん、利口じゃないし、日常生活もおぼつかなくて
目をうつろにさまよわせて
食べ物をぼろぼろこぼし、返事もしない
あなたが大声で「お願いだからやってみて」と言っても
あなたのしていることに気づかないようで
いつもいつも靴下や靴をなくしてばかりいる
おもしろいのかおもしろくないのか
あなたの言いなりになっている
長い一日を埋めるためにお風呂を使ったり食事をしたり
これがあなたが考えていること、あなたが見ていることではありませんか
でも目を開けてごらんなさい、看護婦さん、あなたは私を見ていないのですよ
私が誰なのか教えてあげましょう、ここにじっと座っているこの私が
あなたの命ずるがままに起き上がるこの私が
あなたの意志で食べているこの私が、誰なのか
私は十歳の子供でした。父がいて、母がいて
きょうだいがいて、皆お互いに愛し合っていました
十六歳の少女は足に翼をつけて
もうすぐ恋人に会えることを夢見ていました
二十歳でもう花嫁。守ると約束した誓いを胸にきざんで
私の心は踊っていました
二十五歳で私は子供を産みました
その子たちには安全で幸福な家庭が必要でした
三十歳、子供はみるみる大きくなる
永遠に続くはずのきずなで母子は互いに結ばれて
四十歳、息子たちは成長し、行ってしまった
でも夫はそばにいて、私が悲しまないように見守ってくれました
五十歳、もう一度赤ん坊が膝の上で遊びました
愛する夫と私は再び子供に会ったのです
暗い日々が訪れました。夫が死んだのです
先のことを考え 不安で震えました
息子たちは皆自分の子供を育てている最中でしたから
それで私は、過ごしてきた年月と愛のことを考えました
いま私はおばあさんになりました。自然の女神は残酷です
老人をまるでばかのように見せるのは、自然の女神の悪い冗談
体はぼろぼろ、優美さも気力も失せ、
かつて心があったところにはいまでは石ころがあるだけ
でもこの古ぼけた肉体の残骸にはまだ少女が住んでいて
何度も何度も私の使い古しの心はふくらむ
喜びを思い出し、苦しみを思い出す
そして人生をもう一度愛して生き直す
年月はあまりに短すぎ、あまりに速く過ぎてしまったと私は思うの
そして何ものも永遠ではないという厳しい現実を受け入れるのです
だから目を開けてよ、看護婦さん 目を開けて見てください
気むずかしいおばあさんではなくて、「私」をもっとよく見て!
(パット・ムーア著『私は三年間老人だった』より)
-----------朗読----------------

残念ながら看護師さんの目には、この女性が、のろまで恐ろしく手のかかるおばあちゃんとしか映っていませんでした。でもこの女性の内側には外見からは想像できない、喜びと悲しみの人生の軌跡、そして深く豊かな感性が存在していました。相手を理解し、そしてお互いに理解しあう事、これは人と人とのコミュニケーションの原則です。しかしそれを実践するためには相手の内側にある人としての本質的な価値を見つけようとする想像力が必要なのです。そんな想像力を私は介護の世界で磨いていきたいと思います。

2016-12-12 07:29:56

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引き際の美学

皆さんは、引き際という言葉を聞いてどんな人の事を思い浮かべますか?やはり舛添さんでしょうか?政治資金の一部を生活費に使っているといわれて、すぐ謝らず「何も悪い事はしてません。全てきっちり処理しております。」なんていうものですからテレビや週刊誌のレポーターがうわぁ~と押し寄せて追及され、結局最後は追い込まれて、いやいや辞任させられました。ベッキーさんもそうでした。最初の記者会見で嘘をついたために、ずるずる事態を長引かせて、かえって印象を悪くしたように思います。
とにかく最近テレビを見てると往生際の悪い人のニュースが多いのですが、少なくても昔は、きれいな引き際の方がいらっしゃったと思います。私の中では誰が何と言おうと、山口百恵さんです。当時人気絶頂の21歳、突然結婚と同時に引退します。今でも忘れません、武道館ファイナルコンサートで最後の曲を歌い終わった後「幸せになります」とファンに言ったそのマイクをステージにおいて文字通りスターの座から降りて行きました。少し前ではサッカーの中田英寿さん、日本代表選手まだ29歳の若さでしたが、ブラジルワールドカップ終了と共に引退します。その最終戦でブラジルにボロボロに負けた後グランド中央であおむけに倒れこむその姿は、「俺はもう全てを出し尽くしたー」という気持ちが全身から溢れ出てる様な美しい引き際でした。
 
さて実はここからが皆さんにお伝えしたいところです。私が今回引き際について書こうと思ったきっかけは、なにも舛添さんじゃありません。もちろんベッキーさんでもありません。実は最近、仲の良かったテニス仲間を病気で無くしました。で、その方の死にざまといいますか、人生の幕の下ろし方を目の当たりにして、ああこんな人がいるのか、と深い感銘を受けて、それから引き際というものについて考えるようになりました。

私より一回り上で60前の方で、同じスクールに奥様と一緒に通われていて、お互い初心者だった事もあり、親しくさせて頂きました。スクールの生徒さんの平均年齢が大体20~30台でおまけにコーチは二十歳です。そのなかで痛風の持病のせいだと言って、いつも右足を少し引きずりながら、それでも真剣に汗だくになってテニスをしていた彼は相当浮いていましたが、とても魅力的でした。腕っぷしが強くて力任せで打つ悪い癖がなかなか治らず、自分の子供くらいの若いコーチにからボロカスに叱られても、「わしゃどんくさいからあきませんわ!」なんて笑いとばし、テニスが終わると大好きなアルコール補給のためなじみの居酒屋に一直線という様な大変豪傑な方でした。そんな性格にも魅力を感じて、時々一緒に飲みに行くようになりました。
昨年6月に飲んだ時に、体調が悪そうでひどい咳をされていたので、
私 「大丈夫ですか」
彼 「大丈夫大丈夫、これ喘息ですねん。」
私 「あーそうなんですかー。じゃ病院にかかられたんですね?」
彼 「いぇー、ワシ病院なんて行ったことないですわー」
なんて会話があり、まぁその人らしいといえばらいしのですが、それじゃいけないってことで、とにかく一度、病院行って調べてもらってください。もしそれが本当に喘息だとしたら、いまは飲み薬だけでなく吸入する1日1回シュッと吸うだけの良い薬もありますから、きっと良くなりますよ。と強く勧めました。で、それからレッスンに来られなくなりました。しばらくして夫婦揃ってスクールもやめらました。
心配になってメールを送ったものの返事がきません。でもまぁ、今は治療中で元気になったら戻ってきて、また一緒にテニスしたり飲んだりできるだろう、なんてなんとなく考えて、それ以上の連絡は控えておりました。
すると今年2月に突然奥様よりメールが届きます。そこには、「主人が肺癌で亡くなりました。生前は大変お世話になりました。」と書かれていました。えっ?びっくりしました。。と同時に、何故亡くなる前に教えてくれなかったのだろう、分かっていればせめて励ましにいってやれたのに、と正直憤りも感じながら、電話をかけて奥様に連絡をかけ、後日彼の自宅兼職場(彼は奥さんと一緒にカバンを作る仕事をしていました)に伺って事情を聴きました。
昨年6月に私が病院受診を勧められたその翌日に大きな病院を受診したそうです。そこで全身のCTを撮ってもらって出た診断が、肺癌の末期、肝臓や脳にも転移して、余命半年とその日に宣告されたそうです。その日の晩、彼は初めて奥様の前で泣きました。その時、施設の子供たちに自分の持っている技術を教えて独立を支援する活動を始めたばかりで、それができなくなる事が何よりもつらかったそうです。でもその時彼は、とにかく誰にも言うな、周りに心配をかけるのは嫌だからと病気の事については固く口止めされたそうです。
自宅で夫婦でカバンを作る仕事をされ、内職スタッフもたくさん抱えていました。そのスタッフにも最後まで病気の事は隠されていましたが、亡くなった後にお別れの会を開くように奥様に申し付けていました。スタッフはその会で初めて亡くなられた事を知ったそうです。その時スタッフに配られた彼からのメッセージを見せて頂きました。そこには、彼を襲った非情な運命に対するつらさ、嘆きの言葉はかけらもなく、自らの病気を自虐的に笑いとばしながら(例えば、癌が脳にも転移していたみたいです、自分が時々訳の分からんないボケをかまして皆さんを困らせたのは、決して私のせいではなく癌のせいでした笑とか)、そして自分は勝手気ままな旅に出るから、その後は自分の妻が引き継ぐので、どうか彼女をみんなで支えてあげてほしい、そしてどうかこれまで通り団結して欲しいと書かれていました。
そのメッセージを読みながら、あの明るくて優しい彼の面影が脳裏に浮かびあがりました。そこに私は彼の心を見ました、いきなり余命半年を宣告された時、彼が一番思い悩んだのは自分のことではなく、自分が死んだ後の事、特に奥様の事だったと思います。だからこそ心身ともに疲弊している中で、スタッフを動揺させない様にしながら、奥様に仕事を引継いで、そしてお別れの会とメッセージまで準備したのではないでしょうか。
私からのメールに返事していない事もを最後まで気にされていました。本当の事をいえばいろいろ迷惑をかけるし、かといって嘘はつきにくかったようです。
自分亡き後を考えることと同時に、彼は死ぬ間際まで自分らしく生きたかった。病人扱いされ、周りから同情されながら死を迎えるのなんか真っ平御免だったに違いありません。亡くなる1ヵ月前の職場で撮った写真を見せて頂きました。痩せ衰えていましたが、表情・そして目は以前と変わらずギラギラしていました。入院も最小限にしてもらってギリギリまで自宅で普段通り生活し仕事もされていたそうです。
 
人生においても自分がどうしても到達したかった何かを断念する、自ら幕を下ろし次に向かわなければいけない様な場面が何度かあるはずです。そこでどう判断してどう引き際を作るのかは、その時の心のありよう、かっこよく言えば「生き様」が現れてくるものだと思います。つまり引き際というものが、実はその人が一番大事にしている信条・信念を映し出す鏡であり、引き際を通してその人の心が見えてくる様に思います。
 
引き際は生きざま、そして死にざまにもつながります。
亡くなった友人のお墓参りさせて頂き手を合わせた後、彼の様なあざやかな死にざまを、果たして自分ができるのか、そのような生き方を今自分がしているのか自問自答した時、日々の生活に追われて、一番大切にしないといけない自分の心と向き合うことを忘れていたような気がしました。それはつまり自分がどんな生き方をしたいかということです。
彼が人生の引き際を通して、私にその事を教えてくれたような、そんな気がしました。
 

2016-07-03 15:04:45

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意識の矢印(相手に向けて見えてくる新たな景色)

自分の意識がどこに向いているか考えた事がありますか?

意識には矢印があります。これを自分に向けるか、それとも相手の方へ向けるかによって、考え方、起こす行動が大きく変わってきます。つまり、「意識の向き」が自分の全ての心理・行動のベースになっているのです。

 

10年前、本当に大勢の人前でスピーチを発表する機会がありました。それが私のスピーチデビューでした。もう自分でも、どうしてここまで全身が緊張してしまうの??と不思議になるくらい、口の中カッサカサ、全身ガチガチ、心臓バックバクのパニック状態に陥ってしまい、「この人は緊張している」という情報以外、何も伝えられませんでした。スピーチ後、皆さんからのご意見やフィードバックを頂きましたが、頑張って作り上げた自信のある話の内容について何一つコメントが無くて、強い挫折感を味わいました。

 

その後の懇親会で、優しい男性の先輩からは、「大丈夫、すぐに上手になるから。」と励まされ、僕の中でも、(えらい恥かかされて、めっちゃ残念やったけど、まぁ初めてだししょうがない。場数を踏めばもっとかっこよく話せるようになるやろう)と考えていました。

 

でも正直その時の話の内容に関してはすごく自信があったんです。自信があったからこそ、懇親会の後の帰り道一人歩きながら、みんなに伝えて共感してもらいたかったなぁという思いがこみ上げてきて、改めて自分のスピーチを振り返ってみた時、あの壇上から見えた、聴き手の曇った表情が蘇ってきました。そこではっと思ったんです。一番残念な気分を味わったのは聴き手だったかもしれないって

それが、スピーチするときは、意識を自分から聴き手に向けないと行けないってことに気づいた瞬間でした。

 

その気付きが生まれてから、大勢の人前で話をする時、私の緊張の質が以前と変わってきました。「恥をかいたらどうしよう」から、「せっかく聞いてくれる人達に喜んでもらいたい。」に変わってきたのです。

 

しかし、そんな風に成長を遂げた私ですが、最近またも大失敗をやらかしてしまいました。謙遜という行為による失敗談です。

昨年末、私は古民家カフェで行われた朗読ライブに、落語の演者として参加しました。開演2時間前に到着、静かで薄暗く神秘的な会場の雰囲気に、発表前の緊張感も重なり、私はなんとなく飲み込まれていました。そこにムスッとしたオジサンが一人入ってきます。私のことをじろっと見たので、反射的に軽く会釈しましたが、普通に無視されました。今から思うと、私の意識の矢印はこの瞬間既に内向きになっていたのだと思います。

そこへ、オーダーを取りにカフェのママさんがやって来ます。明るいママがそのオジサンに、「○○さん、久しぶりやね。どうしてたん?あっそうや、今日は朗読ライブがあってな、そこにいるその人が落語してくれるんよぉ」と紹介してくれたんです。

その時、むすっとしたオジサンが表情を緩め「へぇ~、どんな落語すんの?」とママと一緒に視線を向けてきました。私はとっさに、「いえいえ、素人なんで。大したことないです。」と言ってしまいました。その時私はママとオジサンの「ふーん、そうなん。。」という感じの曇った顔を見ました。そして猛烈に反省しました。意識の矢印が内に向いていることに気付いたからです。

本来、謙遜は、相手の気分を害さないための美しい行為です。でも意識の矢印から紐解くと、今回の私の謙遜は、矢印が自分に向いていますよね。つまり、本当は自信があるけど、後で大したことないやんと思われるのが嫌なので、謙遜している。

もしもう一度同じ場面に戻れるのであれば、こう言えたらと思っています。「はい、江戸落語やります。今日はお化け長屋っていう古典落語なんですけど、これがめっちゃ面白いです。よかったらぜひ聴いていって下さい。」。これは、私に対して興味を持ってくれたオジサン、そして会場を提供してくれるママさんへ意識を向けた言葉です。この言葉が言えれば、声掛けしてくれたお二人にきっと喜んでもらえたはずです。

このように、ちょっとした意識の向きの違いで、結果が大きく変わってきます。

 

意識の矢印を相手に向ける、それは相手の立場になって、今この現場を見る、そして聞くことです。今相手がこの場面をどう捉えているのか想像する、そこに集中できれば、意識の中で「自分」が消え、相手との関係が深まるような言葉、行動がごく自然に生まれてきます。

まるでドローンで上から全体を俯瞰して見ている感じです。

それは、内向きの意識の時とは全く違う景色です。

 

よく観察すると、人が周りに集まってくる人って、矢印を相手に向けている人が多いです。

意識の矢印が内向きのまんまで、
目上の人から好かれる人いません。

スピーチの上手い人いません。

好かれる営業マンいません。

たくさんの人と深い人間関係が築ける人いません。


そうやって考えると、意識の矢印というのは、仕事・人間関係を改善する、さらに言えば人生の豊かさの一番ベースとなるスキルだと思うのです。

 

意識の矢印を相手に向ける事に集中する。そうすれば感じ方が変わって、言葉、そして行動が変わります。それは相手に必ず伝わり、相手の意識もこっちに向いてきます。今まで生かせなかった新しい交流の機会がどんどんやってきます。

 

他人であれば、友人であれ、家族であれ、相手が誰であっても、人と向き合う時には、ちょっと意識の矢印を確かめて見てはいかがでしょうか?

2016-05-04 14:16:00

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落語の魅力

最近、落語にはまってます。名人の落語を聴いていると自分の想像力がカーっと掻き立てられて、頭の中がその情景でいっぱいになっちゃう。そして聞き終わった後はなんだか心が元気になる。まるで疲れた心に栄養補給した様なそういう感覚があります。これは朗読を聞いた時と同じなんです。ですので私の感覚の中では落語は朗読にとてもよく似ています。

でも落語を聞いていて気付いた事があります。それは大昔の話なのに、内容といえば、お金がない・人間関係・親子関係がうまく行かない・男女関係のもつれ、あるいは仕事のトラブル、そんな事でドタバタやってる話ばかりで、それらは現代のわれわれが抱えている問題と何も変わらない。つまり昔も現代も人間の本質というものははずーっと普遍的に何も変わってないという事なのです。そして、落語が素晴らしいのは、そういう時代が変わっても変わらない人間の欲深さや汚い部分を全く否定せず、むしろ笑い話にして、ありのまま肯定してしまっていることです。

ですので、落語を聞いていると、自分が抱えている悩みや問題なんていうものが、これっぽちも特別なじゃなくて、昔からどこにでもあった、何百万回、何億回という人の数だけ繰り返されている類の話に過ぎないものだと気付かせてくれるのです。そしてしょせん人間ってそういうものだよ、うまくいかなくて当たり前なんだよ。しょうがないんだよ。と考えると、とても気が休まるわけです。
とにかく最近落語を知り始めたばかりで落語初心者の私ですが、今日は独断と偏見で落語の魅力を語ります。

落語は江戸時代に生まれました。登場人物はというと大体決まっていて、貧乏長屋に住む職人でそそっかしくて喧嘩っ早い「はっつぁん」こと八五郎と「くまさん」こと熊五郎、そして物知りの「横丁の隠居」、そして金にうるさい長屋の大家に、商売を営むお金持ちの「大旦那」と、放蕩息子の「若旦那」、彼らが様々な騒動を巻き起こす。

落語の楽しさ、それは気楽さにあります。どこにでもいそうな人間達の巻き起こすドタバタ劇、聴いているお客さんの方が、演者に対して「何をバカな事いってやがんだい。」とむしろ上から目線になれる気楽さ。これが、能とか歌舞伎等、あるいはオペラやクラシックのコンサートになるとこうはいきません。どうだ、素晴らしいだろ!と言わんばかりの演者に対して、こっちは「理解できないイコール自分の勉強不足で恥ずかしい。」という頭がありますから、必死で周りの反応の遅れをとらない様にして、ビクビクしちゃったりします。

とにかく落語は現実を肯定し、上から目線ではありません。ですのでイソップ寓話のような、教訓や教えなんかはありません。逆に落語を聞いていると、これまで我々の意識を縛ってきたイソップ寓話の偽善性や嘘が見えて参ります。アリとキリギリスと言う話がありますね。まじめでコツコツ働くアリが夏の間に頑張って冬の食糧を蓄えている。それを尻目に怠け者のキリギリスは遊びほうけている。そして冬になると食べ物の無いキリギリスが餓死してしまう話です。つまりこの話は、遊んでないでアリさんのようにコツコツ働きなさい、キリギリスの様な生き方をしていると罰が当たりますよと説教する話なのです。

でも考えてみて下さい。みなさんの周りにもキリギリス人間はいると思いますが、リッチで優雅なキリギリス人間は冬に皆餓死してますか?案外冬に暖かいところで美味いもん食ったりしてますよねw。ウサギとカメもそうです。意地悪で要領の良いウサギ人間が、のろまなカメ人間にいつも負けていますか?
つまり現実はそんなイソップ寓話の様には行かないんです。だって人間っていい部分もあるけど汚い部分もいっぱいある。その人間達が集まった社会が、そんな理想通りに行くわけが無いのです。

その点、落語では、いつも悪さばかりしている放蕩息子の若旦那も堂々と生きていて、ちょっとしたことから大活躍しちゃったりもする。人間社会のあるがままを全く否定することなくそのまま描いている。その潔さが気持ちいいのです。

人は生きていく上で、ああなりたい、こうなりたい。こうあるべきだ等と目標があったり、上手くいかないのは自分がせいだ何とかしないきゃ等と考えたりします。それが日々の頑張りのエネルギーになっているうちは良いですが、頑張ってもどうにもならないこともありますので、段々段々そういう意識が自分を縛り付け、身動きがとれなくなっちゃう事もあります。

人間や人間社会というものは昔からずーっと変わらず、思い通りになんかなるものじゃない。今の自分の悩みも解決できなきゃ、それはそれで仕方ないものなんだと、吹っ切れさせてくれる力。それが落語の一番の魅力なんだと私は思います。

2016-04-01 07:19:00

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聴く力の大切さ、そして話す力との関係

先日、ある飲み会で、話好きのおじさんがいました。彼は話題が豊富で、話は面白いのですが、問題は、他の人が始めた話までも途中でさえぎり、「あ~それ、わかる!俺もそうやってん、こないだなぁ~」と、自分の話をし始めることでした。要は人の話が聴けてないのです。飲み会はまるで彼の独演会といった様相を呈してきましたが、他の参加者の反応は極めて冷ややかで、誰も彼の話を聞こうとしていませんでした。
その様子を眺めながらこう思ったのです。問題なのは彼の話し方よりもむしろ聴き方の方だと。
 
一般的に、聴くことは、話すことより簡単と思われがちです。
しかし実際には、聴いているつもりでも、案外ちゃんと聞けていないことがとても多いのです。
私も昔、部下から相談を受けた時、話の大体半分くらいを聴いて「あっ、そういう悩みか!」と分かったつもりになって、どうアドバイスすべきか考え始めました。つまり話の後半は聞いているようで聞けてなかったのです。で、結局、彼の悩みを的確に理解できずに、ややピントのずれたアドバイスをしてしまうという失敗を何度も経験しました。
 
では人の話をしっかり聴くことがなぜ難しいのでしょうか。私が考える主な理由は2つあります。
①フィルターの存在です。
 人は誰もが、相手の話をそのままではなく、それぞれにある心のフィルターを通して聞いています。だから相手の思いをそのまま理解するのは意外に難しいのです。
②ストレスです。
 私達は日々たくさんのストレスを抱え込んでいます。聴くというのは、相手を受け入れ、そしてその気持ちに共感する行為ですが、過度なストレスを抱えていると、心に相手を受け入れる余裕を持ちづらくなります。
 
では、聴き力を鍛えるためにどうすれば良いか。
まずは、心のフィルター、つまり自分独自の感じ方のパターン・癖が必ず存在することを知る事です。そうすれば、思い込みを避けることができます。そして同時に、話し手のフィルターについても「この人のフィルターは何色かな?」と意識しながら聴くことで、仮に自分と反対の意見であっても、相手がどういった気持ちで、そういう考えに至ったのか理解しやすくなります。
また、人の話を深く理解する為には、自分の中にしっかりとした判断基準、価値観を持っておくことが欠かせません。喫茶店や電車の中で繰り広げられる会話を聴いていると、「あ、これ週刊文春で叩かれていたやつや。」とか、「バイキングで坂上さんがこういっていた。」と、週刊誌やテレビ・新聞から持ち寄った情報・論評を発表しているだけの会話になっている事がよくあります。溢れかえる情報・論評・他者の意見に振り回され過ぎると、自分で考える力が衰え、自分自身の判断基準を持てなくなってしまいます。
また、ストレスを溜め過ぎ心に余裕がなくなると、相手の話をしっかり聞けなくなるので注意が必要です。
そして最後にもう一つ大切な事があります。目の前の相手を、見た目や経歴などで、「あぁ大したことないな」とか、「あぁ、この人のいう事大体わかるわ」と決めつけずに、一人の話し手としてそのまま受け入れる事です。相手を尊重できなければ、相手の言わんとすることをくみ取ることが出来なくなるからです。
 
以上が私の考える聴く力の鍛え方です。そしてこれは同時に、話す力の鍛え方にもつながるはずです。
なぜなら話す力は聴く力と全く違うもののようで、実は表裏一体だからです。
そもそも話す目的って何でしょうか?共感してもらい、情報を伝達し、そして人間関係を良好にしたり、協力を依頼する事ではないでしょうか?
だとすれば、どれだけテクニックを駆使した深い話をしても、相手がそれを受け取ってくれなければ、話す力はゼロです。
相手がどういう人間なのか興味を持たず、どんな伝え方をすれば、自分のメッセージが伝わるのかを考えないで話を始める人は、キャッチボールに例えて言えば、グローブをまだ構えていない相手に、ボールをどんどん投げつけている様な話し方をします。そんなボールは誰も受け取れないし、時には相手を傷つけてしまいかねない、危険な話し方になります。
 
なので、話をする時には、相手がこの話を聴いてどう感じるだろうかという姿を想像し、受け取れる形でボールを投げる事がとても大切です。
そう、話す力は、相手の心の声を聴く力から生まれるのです。
 
聴く力とは、相手の言葉だけではなく、表情・仕草・そしてその時の状況から垣間見える相手の心情を想像する能力のことだと思います。そして聴く力が上がれば、話す言葉・選ぶ言葉も変わり、相手への伝わり方も変わります。話す力・伝える力を上げる第一歩として、聴く力をしっかり身に着けていきたいと思っています。

2016-01-01 13:02:00

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失敗しない交渉術(逆転の発想)

僕はこれまでの人生において、さまざまな交渉の場面からできる限り逃げまくってきました。元々人と話す事さえ苦手で面倒臭いのに、交渉で相手とやり合うなんて、もうとても無理だと思いました。
ところが最近、とある話合いに参加させて頂いた時、両者ともに非常に満足のいく結果が得られた経験をきっかけに、こんな自分でも交渉ができるのかもしれないと思うようになりました。
事情は詳しくお話できませんが、その成功体験から、交渉に対するイメージが180度変わりました。
 
僕はそれまで、交渉というのは相手を打ち負かしてなんぼのものであり、いかに相手を理詰めで追い込んで、自分の言い分を認めさせるかが重要だと思っていました。ところが、うまく行った時の経験を振り返ると、むしろ逆で、相手の言い分を認める事が交渉の成功に直結しています。
つまり、自分の言い分をいかに受け入れさせるかではなく、相手の主張をまずは全部受けとめて、自分のなかに相手の言い分を受け入れる余地がどれだけあるかを見極める事が非常に大切なんです。そしてそのプロセスがあるからこそ、相手が自分の言い分もきちんと認めてくれる。それが交渉における逆転の発想です。
 
そもそも、交渉というのは命令とは違います。コミュニケーションです。つまり、お互いの考え・立場を尊重し合う場面でしか機能しません。
であれば、一旦交渉すると決めた以上は、どんな相手でもあっても、先ずは相手を受け入れる気持ちを持つ事。そこから全てが始まります。
 
これは交渉だけの話ではなく、現在のカウンセリングにも使われているそうです。
先日中学校の先生とお話させて頂く機会がありましたが、例えば学校で問題行動を繰り返す生徒に対する問いかけは、「おまえあかんやろ!」ではなく、「どうしたの?」だそうです。
そして相手の気持ちを全て吐き出させ、その間一切反論せず肯定的に聞いた上で、何がダメなのかをしっかり説明して、最後は「これからは~~するようにしてくれるか?」とお願いする形で指導するそうです。
一見弱腰に見えても、頭ごなしで叱りつけるよりはるかに改善する可能性が高いとの事。
 
 
交渉における逆転の発想、ぜひ皆さんも度試してみてください。

2015-07-06 14:45:50

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ちょっとした一言

先日の土曜日、バイキングで食事しました。店内は混みあっており、特に僕が並んでいたコーヒーメーカーの前がすごい事になっていました。しかも、あともう一人というところで、前の女性が3人分のコーヒーを入れようとしているのです(最近の機械は豆を挽くところから始めるのか、1杯毎に30秒程以上かかります)。
さすがに温厚な私もほんの少しだけイラッとしながら待っていると、3人分つぎ終った女性が私の方に振り返り、「お待たせしてすみません。」と申し訳なさそうに言われてから席へ戻られました。

感動しました。
簡単な様でなかなか言えるものではありません。この方も自分の番がくるまで我慢して並んでいたのですから。

そういえばバスや電車で座席リクライニングを下げる時、後ろの乗客に「いいですか?」と一声掛ける事のできる人もいます。次から僕もこうした一言、絶対言ってやろうと思います。

2015-01-15 15:17:07

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